昨晩(5月28日)はついに2時間もテレビを見てしまいました。中学生を対象とした「全米スペルコンテスト」決勝大会(Spelling Bee)が放送されたからです。素人が芸を競うAmerican Idol(アメリカン アイドル)やAmerica’s Got Talent(アメリカの才能発掘)という番組がこちらでは人気ですが、私はどうもこうゆうのは好きではなく、素人がでてくる番組は年に一度のこのスペルコンテストだけを見ることにしています。隠れたヒット番組でもあります。
全米から予選を勝ち抜いた11人の中学生らが、信じられないような単語のスペルをすらすらと答えます。審査員が単語を発音し、競技者は1)その単語の意味と語源、2)用法、3)別の発音の仕方があるか、という3つの質問しかできず、そうしたヒントから綴りを言い当てねばなりません。
例えば、
審査員(発音する):マーセナス (と私には聞こえる)
競技者: マーセナス、それはどうゆう意味ですか
審査員: 文学や芸術などの支援者、パトロンのことを指す
競技者: 語源は?
審査員: ラテン語
競技者: 別の発音がありますか?
審査員: 現在の英語発音はマーセナスのみです
といった具合です。
う~ん、マーセナスってメセナのことじゃないのかなあ、とは連想したのですが、英語の綴りは?? 私に分るわけない!
はい、正解は maecenas
これは易しいほうです。 isagogeだの conchyliated、 psittacosis なんて一生に一度も使わないような単語を言われても… という世界です。
最終戦には11人、そのうち7人がインド系というのも驚きでした。そして優勝者は、インド系の13歳の女の子でした。
詳細にご関心のある方は、http://www.spellingbee.com/
Saturday, May 30, 2009
Friday, May 29, 2009
今日の一言@ニューヨーク: Cycling is fun, convenient, and good for the environment.
季節がよくなって、埃を被った自転車を掃除しタイヤに空気をいれて、私のマウンテンバイクはこの週末から出動開始です。マンハッタンに住んでいて何故マウンテンバイクか、というと道路にデコボコが多くて、ママチャリではちょっときつい、と思ったからです。しかし、この2年ほどで自転車専用帯(写真左)も増えてきて、多少ですが自転車で移動しやすくなりました。自転車通勤者も18万5千人もいるそうで、年々増加しているそうです。
5月はBike Month NYCということで、ニューヨーク市も肝いりで自転車安全教室や自転車通勤路紹介ツアーなども行い、各地域で自転車ツアーやイベントがあります。私は参加してないですが、6月にはハドソン川沿いの自転車ツアーにチャレンジしてみたいと思っています。
私は自宅で仕事をしているので通勤する必要がなく、自転車を使うのは買い物と週末の運動に、というくらいですが、スーパーやお店の近くに自転車を止めるところがないことに不満を持っていました。しかし、この1年ほどで自転車置き場も少しづつ増え、工夫がされています。まだ数は少ないですが、立派なParkingもできました。(写真中央)
また、2008年にはBike Rackデザインコンテストがあり、アートのような自転車置き場もあちこちにできました。うちのご近所にもメタルのアート系自転車置き場があります。(写真右)
Bike friendly の街を目指すニューヨーク。楽しく、便利、そして環境にもやさしい自転車が市民権を得てくれる日が近いです。
Tuesday, May 26, 2009
今日の一言@ニューヨーク: Is this Memorial Day any different from the one a year earlier?
ニューヨークに戻りました。涼しかった1ヶ月前にはまだ新芽もなかった街頭樹がすっかり緑に覆われ、その数日は気温が30度にも上がって急に夏のような太陽です。ハナミズキ(Dogwood)の白い花が満開です。今週末はメモリアルデー・ウイークエンド。メモリアルデーは戦死したアメリカ人兵士らを悼み、各地でパレードや行事があります。アメリカ人にとっては、バーベキューとビーチの季節のはじまりでもあります。
1年前のメモリアルデーから、アメリカはこれまでとは違った時代に突入したような気がします。一年前には予想もつかなかったレベルの景気の悪化と失業率。影響が少ないといわれたマンハッタンの不動産も最近は2割減以上の値崩れを始めました。身の回りでも友人3人が失業、自営業の友人もこの1年で売上が半分以下、といった暗い話が多くなりました。私も含め、積立年金(個人401K)もどんどん目減り、将来に不安が募ります。
アメリカはイラクとアフガニスタンでまだ戦争を続けており、イラク戦争ではこれまでに4900人以上が死亡、31,000人以上が負傷しています。そして、このメモリアルデー、アメリカではグアンタナモ基地収容所閉鎖についての議論がニュースとなっています。オバマ大統領は収容所閉鎖のための予算案を議会に提出して却下され、チェイニー元副大統領が収容所閉鎖に反対のスピーチを行ったからです。
そして今朝、北朝鮮が核実験をしたというニュース。4月から準備をしていたといわれますが、なにもメモリアルデーに実験しなくても… 内外で山積みの問題、バーベキューが楽しめない雰囲気です。
一方、新型インフルエンザ、こちらでは当然ながらマスクをする人はおらず、街は平常通りにみえます。昨日はニューヨークで二人目の死者がでたことで夜のニュースとなりましたが、冷静でローキーな扱いでした。ニューヨーク日本領事館からは邦人向けに地元インフルエンザ感染統計とともに、予防には手洗いとうがい、マスクをするようにというEメールがしばしば来ます。アメリカにきて誰もマスクをしてない、そして、うがいもしないのを見て、私は昔ビックリしました。やはりマスクは異様にみえるので外出でかけるのは相当な勇気がいります。うがいでホントに予防できるかなあ、と半信半疑ながらも、私はひとまず頻繁にうがいをすることにしました。
Tuesday, May 19, 2009
今日の一言@パリ: The wonderful world of Albert Kahn
2年前、日本でNHK・BS放送の海外ドキュメンタリー「奇跡の映像、蘇る100年前の世界」を見ました。英国BBC放送制作で、フランスの銀行家アルベール・カーンが1908年から30年ごろまで世界各地に写真家を派遣して、映像記録をした膨大な資料を紹介した番組でした。
50カ国以上で記録した写真や動画が今でもカーンの住んだパリ郊外のブーローニュの森の資料館に保存されています。彼は銀行事業で日本との関係も深く、当時の日本の政治家や皇族との交流もあって日本に関心が深く、日本庭園をその広大な敷地に作りました。今ではアルベールカーン美術館(Musse Albert Kahn)として公開されています。海外ドキュメンタリーをみて以来、私はずっと行ってみたいと思っていました。この週末、ついに訪問してみました。
メトロ10番線の最終駅、Boulogne Pont de Saint Cloudで降りてすぐ、ブローニューの森の南西にある美術館では今年8月まで1915年と1928年に2度にわたって記録されたインドの映像を特集展示しています。当時としてはめずらしいカラー写真であったオートクローム(Autochrome)技術を使った映像で、インドの各地の様子を見ることができました。
日本の映像も数多くあるのですが現在は展示していません。しかし、資料室のコンピューターでいくつかの映像と写真を見ることができました。1910~1930年ごろの東京、日光、田沢湖、京都、奈良などの映像のほか、大正天皇の葬儀の様子や昭和天皇のパリ訪問などの映像がありました。当時の東京駅、その周辺の丸の内あたりでしょうか、欧州のような町並みでした。着物をきた男女が忙しそうに歩くなか、ロンドンの警官のような服装のおまわりさんがいるもの不思議な感じでした。空襲でなくなる前の東京、みた事がありませんでした。
またアルベールカーンは当時フランスに駐在されていた北白川宮城久王と房子妃と親しかったようで、資料映像にはおふたりがカーンの別荘でくつろぐ様子や友人らと和やかに歓談する写真などがありました。
日本庭園は地味ですが、楓や桜も数多く、季節によって美しいと思います。今はあやめとつつじがちょうどきれいでした。(写真は庭園で)
アルベールカーン美術館については日本語で書かれたサイトがあります。
http://www.museesdefrance.org/museum/serialize/mon..
NHK、BS放送については次にあります。いつか全編を観たいと思っていますが、DVDがあるといいのですが。。。
http://www9.nhk.or.jp/pr/keiei/shiryou/soukyoku/20..
BBCによる放送と出版については英語ですが、次にあります。
http://www.albertkahn.co.uk/museum.html
http://www.albertkahn.co.uk/photos/Portraits/A0386.. (写真のモダンな服装の女性は房子妃)
20世紀前半、世界50カ国以上の記録を集めたこの大富豪は1929年の大不況で資産を失い、死ぬまで家に住まわせてもらうという条件のもとにブーローニュの敷地と家財をパリ郊外の自冶体に買い上げてもらいました。それがこの美術館のもとになったわけです。そして1940年、生涯独身であったカーンは80歳の生涯を静かに終えたのだそうです。
Saturday, May 16, 2009
今日の一言@イスラエル: Sights, sounds and tastes of Israel
異国に行くとそこで見るもの、聞く音、マーケットの匂い、そして地元料理の味は新鮮です。イスラエルに行くたびにその太陽光線の強さと光りの透明感に感動します。地中海沿岸独特のものなのかもしれません。
セザリアのあと週末はハイファに行きました。首都テルアビブから電車で1時間弱ほど北にあり、海岸からすぐに丘とカルメル山で起伏のある地域で、比較的緑の豊かな町です。テルアビブはBeach Cultureといいますか、町が海岸に沿って発展して平坦な赤土っぽい乾いた緑の少ないところです。ロスアンジェルスのイメージに近いと私は感じています。一方、ハイファは丘と山の起伏があって景色に変化があります。
ハイファにはバハイ教の本山があり、山の中腹に巨大なバハイ庭園とドームが作られています。庭園には信者しか入れませんが、山頂近くの入り口部分は観光客に開放してドームを見下ろすことができます。(写真左) バハイ教は19世紀半ばにペルシア(現在のイラン)で始まった宗教です。(ご関心のある方はバハイの日本語サイトへhttp://www.bahaijp.org/nsanew/index.html)
月曜日にテルアビブに戻って、1930年代のバウハウスの建築様式の建物などを見て歩いたあと、食品や雑貨を売るマーケットに行きました。私はなぜかどこに行っても、日常的に庶民が買い物をする雑然としたマーケットが好きです。さまざまな香辛料、新鮮や野菜や果物、お肉屋や魚屋などがところせましと並び、威勢のいい声があちこちで響いていました。(写真中央)
12日火曜日の夜は、イスラエル交響楽団(Israel Philharmonic Orchestra)の演奏を聴きに行きました。ちょうどEU発足記念日であるヨーロッパ・デーにあたり、ニューヨークフィルで活躍したKurt Masurの指揮による特別公演でした。(写真右) Masurは82歳ですがダイナミックに指揮をしていました。ただ、演奏時間は1時間弱と短く、メンデルスゾーンの交響楽No.4とベートーベンのNo.7のみ。アンコールもありせんでした。コンサート前にMasurのことをググッたら奥さまは日本人。偉大なマエストロの公式ウエブサイトには家族写真も沢山載っています。
Tuesday, May 12, 2009
今日の一言@イスラエル: Archaeological attractions reveal long-lost civilizations.
テルアビブから電車に乗ってハイファに行くことにしたので、途中でセザリア(Caesarea)というローマ時代からの遺跡の残る国立公園に寄りました。地中海に面したセザリア国立公園で入場料(約1200円)を払い、発掘された様々な遺跡を5時間くらいかけて歩き回りました。
まずビジターセンターで歴史紹介ビデオを観ました。紀元前5世紀くらいからフェニキア人による集落があったようですが、セザリアが繁栄したのは紀元前30年以降、ローマ帝国による都市計画で大型の港湾設備のある港町となってからでした。ローマ帝国にこの地域統括者となったヘロッド(Herod)は、アレキサンドリアのような大都市を目的とし、入り江もなく平坦で浅瀬の海岸に当時のエンジニアの最新技術を駆使して船着場のある港湾設備を建造し、この新都市をシーザーにちなんでセザリアと命名。神殿をつくり、帝国運営のための各役所建物やホール、円形劇場、競技場、ローマ風呂施設、そしてアクアダクト(水路)などを次々に建設しました。競技場では馬車走(Chariot)やグラジエーターと野獣戦などが行われ3万以上の観客収容規模であったそうです。(円形劇場のほうは現在は修復されてコンサートやダンスパーフォーマスなどを行う野外ホールとして利用されています)
さて、ローマ帝国崩壊によって4世紀から7世紀にかけてビザンチン時代を迎え、セザリアの神殿はビザンチン教会となります。大きな防塞が作られてさらなる繁栄を続けます。7世紀半ばにアラブ軍が攻めてきてセザリアは壊滅。9世紀にはアラブ人の交易の港としてまた防塞が作られて町が形成されますが、11世紀に十字軍がそれを征服します。13世紀前半、フランスのルイ9世のもとセザリアは要塞となります。そして1265年、トルコ系勢力圏マメルーク(Mamelukes)によって十字軍は滅ぼされ、そのあとセザリアは歴史から姿を消します。
セザリア遺跡は19世紀末に発掘が初めて始まりました。20世紀にはいってこの一帯をロスチャイルドが購入して遺跡保護をすると共に、別の内陸地帯にはセザリアの町つくりが始まったというこでした。現在、セザリア内陸部にはハイテクパークや産業地区がひろがり、海岸に近い地区にはイスラエルで一番古く有名なゴルフコースがあります。
写真左、ローマ時代のアーケードに使われたコラム、地中海を背景に美しいシルエットです。
写真中央、十字軍時代の防壁、ローマ風呂の公共ホールや施設。床一面に広がっていたのは大理石や美しいモザイクだったようです。多くのモザイクがあちこちあり、観光者がその上を歩いてもOKというのが少々驚きでした。
写真右、公園内は6つほどのレストランがあり、結婚式などもできるホールと施設を完備。ランチに私たちはオリーブと中近東風香辛料ソースを使ったホタテ貝のソテー、スズキのような白身魚のグリル、各種前菜小皿などを地中海を見ながら楽しみました。トルココーヒー(Turkish Coffee)も美味でした。
Sunday, May 10, 2009
今日の一言@テルアビブ: We don’t serve alcohol here.
イスラエルに来ても楽しみなのは食事です。中近東と欧州の様々な料理があり、フュージョンでも美味しいレストランも沢山あります。でも私が一番好きなのは典型的な中近東料理のHummus(ひよこ豆をオリーブオイルなどで練って混ぜたもの)、野菜を沢山つかった各種サラダ、ピクルスといった小皿前菜です。ピタブレッド(Pita)と一緒にいただくと、これだけでお腹一杯になります。あるレストランでは通常のピタではなく、直径が40センチくらいもあるホームメードで、ピザのドウのようにモチモチ、焼きたてで表面はサクサク感もありました。(写真左)
一方、もっとカジュアルな食堂のHummusを食べた時には、煮込んで柔らかく温かいひよこ豆が載せてあり、非常に美味でした。ファラフェル(Falafel:ひよこ豆にパセリや香辛料などを混ぜてボール状にして揚げたもの)、トマトとキュウリのサラダを注文し、ピタと一緒に食べました。(写真中央) ここのピタは通常の15センチ直径くらいの丸パン状で、これもムチムチ感があり満足のいく質でした。
簡単なようですが、こうしたお味、ニューヨークには似て非なるものしか見つかりません。やはり本場は違うといつも感心します。当然、中近東料理はアラブ系イスラエル人がやっているレストランが美味しいです。複雑なお国事情がありますが、テルアビブの一部にはジャファ(Jaffa)という町があり、そこにはイスラム教徒とキリスト教徒のパレスチナ系イスラエル人が多く住んでいます。東京都の中の「下町」といった区域とでも言えばいいのでしょうか、そんな感じです。ジャファは港町として発展した歴史があり、今でも古い建物が並ぶ中近東の町の雰囲気を持っています。そんな「下町」でヘチマのたわしを見つけました。(写真右)体を洗うのに使うんだそうです。これって、昔、日本でも使ってましたよね。
イスラム教徒の経営しているレストランなので当然のことながらアルコールはありません。ビールが飲みたいなあ、と思ってもガマン。しかしガマンの甲斐があるお食事です。食後のカルダモン入りの強烈に濃いコーヒーもなかなかのお味です。
義弟は人権問題専門NPOの弁護士で、アラブ系イスラエル人の人権保護や、不条理な軍事占領下での人権問題などを扱って最高裁で戦っています。長く複雑な歴史と延々とつづく派閥間の意見の違い、共存と平和への道はまだまだ遠いようです。みんなが幸せになるのって、本当にむづかしいことだなあ、と思いながら私は無邪気にピタを食べるのでありました。
Saturday, May 9, 2009
今日の一言@テルアビブ: It’s a nice spring season in the Holy Land.
6日にイスラエル、テルアビブに到着しました。私は1992年に初めてこの地を旅行してから、7回くらい来ているでしょうか。もともとダーリンの家族がイスラエルにいたからです。1930年代、ナチス台頭の直前、ポーランド、ロシアやドイツからパレスチナに入植したご先祖は、一部がそのままイスラエルに定住、そして一部がそこからアメリカ、フランスなどに移民しました。
そんなわけで私はイスラエルという国に、旅行者として、家族、友人として何度か来る機会を得たわけです。観光名所の多いエルサレム、死海などは既に行ってしまったので、今回はテルアビブとハイファのみです。春なのでからっと晴れて、気温が朝夕は16度くらい、昼間でも27度くらいで過ごしやすい季節です。夜は軽いジャケット、カーデガンが必要なくらいです。
昨日はひとりでテルアビブ美術館に行ってきました。(左:美術館正面) 隣に新しいオペラハウスがあり、文化施設やギャラリーなどのある地区にあります。この美術館はニューヨークで言えばMoMa(近代美術館)のコンセプトに近く、大きく別けて3つのカテゴリーがありました。イスラエル人芸術家の作品、世界の現代芸術作品、そして19~20世紀の欧州の絵画の3つです。この最後のカテゴリーは「ブルメンタール・ミツネ・コレクション」というもので、この夫妻の絵画コレクションの寄贈品です。
フェリシア・ブルメンタール(1908~1991年)はポーランド出身ピアニストですが、夫のマルクス・ミツネとともに欧州から1938年にブラジルに逃れます。20年以上をブラジルで過ごし、ミツネはビジネスで成功、ブルメンタールも南米やアメリカでピアニストとしてのキャリアを形成したようです。1950年代から欧州にしばしば戻り、62年からイタリアとフランスに生活の場を移しました。いつから絵画コレクションを始めたのかわかりませんでしたが、クリムトやカンダスキーをはじめ20世紀前半の欧州絵画(フォービズム、ドイツ表現派、キュービズム、超現実主義など)が数百点も展示されていました。
そして藤田嗣治の作品もありました。しかも、ブルメンタール自身の肖像画で1957年の作品でした。(写真右は美術館ブティックで購入した絵葉書) そのスケッチ画も展示されていました。肖像画を依頼されて画いたのでしょうから、きっと藤田ともフランスで交流があったのでしょう。ブルメンタールの肌にも、藤田の独特の乳白色が使われていました。
なんだか不思議な今日の発見でした。
Wednesday, May 6, 2009
今日の一言@パリ: A weekend house is an hour away from Paris.
この週末は友人のパリジャン(Parisian)に誘われ、ご家族で週末を過ごす田舎のセカンドハウスにお邪魔しました。パリのアパートでは自然が楽しめないので、お子さんが小さい時、24年前に購入したそうで、車でパリから東へ1時間ほど走った農村地域の田舎風の家です。蔦と藤がからまり、ちょうど藤の花が満開でした。(写真左、右) 裏は林でその5ヘクタールを所有していると聞いてびっくり。500メートル四方が全部自分のもの、お隣やご近所がまったく見えないわけです。
パリから1時間強、そこには肥沃な平野が広がる畑が延々と続き、この地域では菜の花(油をつくる)、豆類、とうもろこしが主な農産物だとか。ここからさらに30分ほど南東に進むとなだらかな丘陵の地形となり、シャンペーン産地エペルネ(Epernay)となります。
土曜日はお天気に恵まれ、シャンパンとワインでお庭でバーベキューをし、近くの菜の花畑や林を散策。そして日曜は中世に栄えた町、プロバン(Provins)に行きました。10~13世紀にシャンペン・ティボー卿が交易の中心地にした城壁に囲まれた町で、テンプル騎士団の発祥地でもあります。ティボー卿も十字軍遠征に参画し、ダマスの薔薇をプロバンに持ち帰ったそうで、今でもその薔薇がこの町のシンボルにもなっています。
テンプル騎士団は軍事組織であると共に、交易による富の寄進による資産を背景とした金融組織と発展し、フランス王国を軍事的、財政的に支えました。これが悲劇の始まりで、13世紀にはプロバンも歴史からその名が消えました。つまり、フランス王はテンプル騎士団に巨大な借金をし、首が回らない状態まできたわけです。フィリップ4世は債務帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅を図ったといわれる所以です。異教のレッテルのもとにテンプル騎士団は逮捕、財産没収、最後の騎士団総長は1314年処刑となっています。
テンプル騎士団の町プロバンには、ベトコンもびっくりの地下道があちこちに作られ、交易で運び込まれた物資が倉庫として地下に保管されました。地下道と地下倉庫の一部は今でもガイド付きで見ることができます。金銀財宝も眠っていたのをフィリップ4世は見つけられず、今でもどこかにあるのは?という噂があるそうです。
テンプル騎士団の話は「ダビンチコード」などの小説にも使われて、今でもその謎とロマンに満ちていました。プロバンの情報は英語ですが、次にあります。
http://www.provins.net/anglais/default.htm
パリから1時間強、そこには肥沃な平野が広がる畑が延々と続き、この地域では菜の花(油をつくる)、豆類、とうもろこしが主な農産物だとか。ここからさらに30分ほど南東に進むとなだらかな丘陵の地形となり、シャンペーン産地エペルネ(Epernay)となります。
土曜日はお天気に恵まれ、シャンパンとワインでお庭でバーベキューをし、近くの菜の花畑や林を散策。そして日曜は中世に栄えた町、プロバン(Provins)に行きました。10~13世紀にシャンペン・ティボー卿が交易の中心地にした城壁に囲まれた町で、テンプル騎士団の発祥地でもあります。ティボー卿も十字軍遠征に参画し、ダマスの薔薇をプロバンに持ち帰ったそうで、今でもその薔薇がこの町のシンボルにもなっています。
テンプル騎士団は軍事組織であると共に、交易による富の寄進による資産を背景とした金融組織と発展し、フランス王国を軍事的、財政的に支えました。これが悲劇の始まりで、13世紀にはプロバンも歴史からその名が消えました。つまり、フランス王はテンプル騎士団に巨大な借金をし、首が回らない状態まできたわけです。フィリップ4世は債務帳消しをはかってテンプル騎士団の壊滅を図ったといわれる所以です。異教のレッテルのもとにテンプル騎士団は逮捕、財産没収、最後の騎士団総長は1314年処刑となっています。
テンプル騎士団の町プロバンには、ベトコンもびっくりの地下道があちこちに作られ、交易で運び込まれた物資が倉庫として地下に保管されました。地下道と地下倉庫の一部は今でもガイド付きで見ることができます。金銀財宝も眠っていたのをフィリップ4世は見つけられず、今でもどこかにあるのは?という噂があるそうです。
テンプル騎士団の話は「ダビンチコード」などの小説にも使われて、今でもその謎とロマンに満ちていました。プロバンの情報は英語ですが、次にあります。
http://www.provins.net/anglais/default.htm
Saturday, May 2, 2009
今日の一言@パリ: May Day is still alive in Paris.
5月1日といえばメーデー。フランスでは死語ではないところが、驚くべき現実であります。今日はお天気にも恵まれて、サンジェルマン通りには様々な労働組合員とその家族、失業者から平和主義者、社会主義者、共産主義者、そして単なるお祭り気分の人まで、行列を作ってデモをしていてすごい人出となりました。物々しい警備の機動隊が要所にいましたが、全体的には仲間や家族全員でプラカードの後をついて大通りを行進するといった雰囲気でした。
メーデーですからやはり社会党系組合と左派団体が中心で、「サルコジを阻止して新しい欧州を!」とか「給与安定と失業対策を」といったプラカードが目立っていました。チェゲバラの顔が印刷された赤い旗もひらめいたりして、なんだか60年代の映画でも観ている様でもありました。
日曜日も半日は営業しているスーパーやお店までほぼ全部閉店。一部のパン屋さんや薬局が営業といったように、クリスマスやお正月の休日と同じくらいにお休みも多かったことも驚きでした。従業員が組合にはいっているのかあ、やはり。
そして一方では、町のあちこちには、路上で花や古本を売ったり、アーティストが画やイラストも売っていました。今日は一般の人が許可なしで街頭で自分のものを売ってもよいという話でした。すずらんを売っているスタンドがとても多く、その可憐な白い花と香りでパリは満ちあふれていました。さっそく私もすずらんを買ってその香りを楽しみました。(写真右)
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